知識がぽろぽろ

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半蔵門線の旧車両、あれは嫌いだった。
初等科の頃、扉の高い位置にある窓は果てなく遠く、背伸びをしても外界を見せてくれることはなかった。
あらゆることに早熟で、背の高かった友人にはからかわれたし、同時にその背格好はとても羨ましかった。
成長した今となっては車両を嫌いになることも、また羨むこともなくなったが、しかし何の想いも抱けなくなったのは少し寂しいものである。
夕方の、都心から郊外ベッドタウンへ向かう列車の中で、ふと、そんなことを思い出した。
長らく忘れていた感情の様な気もする。

あの頃は毎日の通学に新しい何かを求めていたし、それに応えられるほどのものを世界は含蓄していたと思う。
電車の決まって大きく揺れる場所、例えばレールの繋ぎ目だったりカーブの途中だったり、その場所を覚えては身体を上手い具合に反応させ、”手すりを掴まなくても大丈夫な僕”を得意気に思ったりしていた。
またある時は、飽きることなくエレベーターのボタンを押して行ったり来たりしたこともあった。これはいささかきちがいの所業にも思えるが、あるいはそうだったのかも知れない。
今ではそれらは馬鹿らしい数々のひとつにしか思えないが、当時の自分にとっては通学そのものが新鮮で楽しみのある遊びの一種だったのだ。信じられない。

若くありたい、と願う。
それは感性であり哲学であり自論である。
常に何かを探していたい。常に何かに影響されていたい。常に何かを考えていたい。

お気づきの通り、特に脈略もなく喋っている。
とにかく書こう、そんな気分。

立て続けに本を読んだ。
もし頭の上半分が切られていて、知識の海が見えたとすれば、きっと少しの衝撃で活字がこぼれ出てくるだろう。
そしてそれらは次から次へと口をついて外に吐き出される。ぽろぽろぽろ。
時間が経てばこぼれ落ちる活字はとりとめもなく増える一方だし、吐き出された知識は音を伴って散乱する。
海は決壊するまで活字を飲み込むのをやめない。落ちた知識は誰かが拾って持っていってしまった。
決壊は突然訪れるし、知識はいつか独占的なものになるだろう。
考えることをやめた時、人間は死ぬ
そんなことを言った人がいた。
今は考えていたい。若くありたい。
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